2006年7月アーカイブ

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92.jpg 29日(土)の夕方、私が学んでいる社交ダンススクールの“SUMMER PARTY2006”に参加した。年2回都内のホテルで行なわれるもので、今回は20回を迎え盛大に行なわれた。私はまだ1年と6ヶ月ぐらいしかレッスンしていないので、参加というより出席という感じだった。アマチュアの部に出るにはかなりのレッスン数と経験(3年位)がないと到底、人に見せるようなものではないということを皆さんのダンスを拝見して、より強く感じた。


 社交ダンスは別名ボールルームダンスといい、英国で生まれフランスに伝わり「宮廷舞踊」として発展していった。しかし、フランス革命で「宮廷舞踊」は滅んでいき、今ではバレエの世界においてのみ「宮廷舞踊」が残り、それらは観賞用の踊りとして社交ダンスが残されたという。17世紀に入ってアメリカに渡り中産階級で社交ダンスが踊られるようになった。

日本のダンスの歴史は『鹿鳴館』の舞踏会が最初といわれ、明治16年1月11日木挽町の明治会堂で行なわれた。しかし、その当時は政府の高官や在日外交官などの上流階級に限られたものであり、一般の民衆に広まったのは、ずっと後のことである。ダンスにはワルツやタンゴなどのモダン種目とサンバ、チャチャチャ、キューバンルンバなどのラテン種目がある。その他としてブルース、ジルバ、マンボなどが踊られるようになった。

ともかく、この日のディナーの後のショータイムでスクールのインストラクター22名全員で踊ったダンスは躍動的でリズミカルでそして美しく、見ているだけで自分の体が自然に動いてくるのがわかり、感動で心が震えるような感覚さえ覚えた。忙しい中、なんとかスケジュールを調整して今までレッスンを受けていたが、どうもまだ私には社交ダンスの楽しさを味わうことができていなかったようだ。しかし、今回のプロのダンスを見て何か大衆を魅了するものがあることが分かった。私も続けてきてよかったなぁと改めて感じ、早く私もアマチュアの部に出られるようがんばらなければと強く感じた一日であった。

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Drの四方山日記(92)

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 ある書物を読んでいたら、面白い記事があった。路面電車の車内に風鈴やうちわを飾って、乗客に夏の気分を味わってもらおうというもので、夏の間毎日運行させるという。

 この路面電車は岡山にある岡山電気軌道で、今市民の間で人気を得ている。風鈴といっても地元の備前焼の特別なもので56個が車内に吊り下げられ、電車が走るたびに“チリーンチリーン”と心地良い音色を出している。それと、両側の窓には市内の専門学生7人が製作した魚やヨーヨー、なすびなど夏の風物詩をもじったうちわが至る所に張られ、涼感あふれる雰囲気を醸し出している。やはり電車は乗るだけではなく、なにか楽しい気分を味あわせてくれることは乗客にとっても嬉しい限りである。特にこの暑い夏を乗り切るためには最適である。

 もう1つの話題の路面電車は富山にある「ライトレール」という路面電車である。この電車は地域密着型で富山港を走る。2車体連接低床式路面電車(LRV)で7両編成を導入している。ユニークなのはこの電車の名称である「ポートラム」は一般公募で決められた。ポートは「港」でこれに路面電車(Tram)を組み合わせた造語である。外装は地元立山の新雪を基調とし、正面のフロントガラスの下縁部と乗車口の周りには編成電車ごとに赤、黄、青、緑、橙、紫、黄緑色の7色に塗り分けられ、乗車する人や近隣住民を楽しませている。

 電車は人々を運搬するだけでなく、乗って“安心”“安全”“快適”はもとより快楽性もないと中々地域はもちろん観光客にも浸透してこないのではないか。全国にある路面電車がみんなに愛されるためにいろいろ趣向を凝らして楽しませて欲しい。
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Drの四方山日記(91)

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90.jpg 都内に公園は沢山あるが、最近野球やキャッチボールしている姿を見たことがない。郊外の河川敷での野球やキャッチボールは車を乗っていて多く見かけることはあるが、この頃親子でキャッチボールする機会があまりないようだ。

 私の幼少の頃は野球というよりもソフトボールが盛んで近くの神社や広場に行くと、誰かしらキャッチボールをしていたものである。私は、キャッチボールは簡単そうに見えて奥が深いように思う。また相手とのコミュニケーションを取る上では最適な方法ではないか。

90b.jpgでは、なぜ最近キャッチボールが減ってきたのか。それは「キャッチボールは危険」という考えから、公共の場所や公園でのキャッチボールが禁止されたからである。それは硬球のため人に当たると危険だからという理由かららしい。そこで今年から日本プロ野球選手会が中心になって素手でもグローブでも取れ、親子でも女性同士でも楽しめる新しいボールが作られることになった。大手のボールメーカーが日本プロ野球選手会と共同で専用球「ゆうボール」を開発した。ボールの外側は合成皮革で、中はゴムスポンジで作られ、素手でも扱えるように軟らかいという。また握り方を学べる縫い目もあり、自由自在にキャッチボールを楽しめるらしい。このボールの開発によって今まで全面禁止していた日本公園緑地協会が許可の方向に検討しているようだ。

我々団塊の世代は、学校の校庭で暗くなるまで三角ベースに夢中になったものだ。我々の孫に当たる世代も、サッカーに限らずキャッチボールを軸としたファンコミュニケーションに取り組んで欲しいものである。

■関連サイト
キャッチボール専用球「ゆうボール」 -日本プロ野球選手会
 楽天市場 野球用品ベースボールタウン

Drの四方山日記(90)

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89.jpg 8月2日横浜アリーナでWBAライトフライ級王座決定戦が行なわれる。その試合に今ボクシングで最も注目されている亀田興毅選手が出場する。相手は世界ライトフライ級1位のファン・ランダエタ(ベネズエラ)である。このボクサーは経験もあり適応力の高さも持つハードパンチャーである。おそらく凄まじい試合が行なわれるのではないだろうか。
 さて、亀田興毅・大毅・和毅の3兄弟をまとめる父、史郎氏はトレーナーとしては超一流に見えるが、どうも普段の言動に問題があるように思える。確かにボクシングに限って言えば相手に対しての威嚇やパフォーマンスは絶対必要であるが、しかし、父が子を育てる教育についてちょっと疑問視するのは私だけであろうか。先日、ボクシング界の偉大なチャンピオンであった具志堅用高氏が亀田選手について「亀田の実力や未知なる可能性は認めるが、あまりにも話題先行、キャラクター作り重視の、マスコミ主導の作られたブームという感じがして嫌ですね。」と苦言を呈した。世間では辰吉と亀田を重ねる人がいますが、辰吉の方が少なくとも洒落や知性がある。亀田一家にはどうも底の浅さを感じる。
 亀田に近いあるジャーナリストが、興毅が17歳の時初めて出会った。その時彼は次のように述べている。「腹いっぱい食べる金がないねん。俺たち兄弟はめちゃくちゃ食うんやけど、親父に迷惑がかかるのであまり食べないようにしてんねん。練習場所に行くにも電車賃やホテル代でもう金がないんや」その言葉に返す言葉がなかった。あれから2年、生活に飢えた少年は一気に出世街道を駆け上がり、今まさに世界に挑もうとしている。

 どのジャーナリストも彼たち一家を取材して脅かされるのは「勝負」に対しての執着心である。彼たちにとっては練習もまた真剣勝負である。19歳の若者がハングリー精神を持ち合わせた立派な勝負師になることには頭が下がるが、もっと彼たちを愛情を持って包み込むような人物が必要ではないだろうか。これとよく似た人物に、アメリカのマイクタイソンがいる。彼はボクシングさえ強ければ、非倫理的なことを犯しても自分は許されると勘違いした。大人たちの弱みを見透かして行動することが当たり前だという間違った意識が、後の婦女暴行事件や対戦相手の耳噛み事件を起こしたのである。つまり、精神面を鍛えていない人間は最終的には破滅するということである。
 その点からも亀田一家を取り巻く人たちが、もっと世の中の厳しさや優しさを教え込んで、肉体的にも精神的にも成長した本当の“世界チャンピオン”になることを願っている。

Drの四方山日記(89)

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88.jpg 25日の厚生労働省の簡易生命表によると、2005年の日本人の平均寿命が男性78.53歳、女性85.49歳で前年よりそれぞれ0.11歳、0.10歳短くなったと伝えている。これは99年以来6年ぶりのことである。その理由をインフルエンザが原因の肺炎などで高齢者が死亡するケースが増えたためとみている。しかし実際には自殺の増加や他の病気(心疾患など)によるものもあるのではないか。

 世界の平均寿命を見ると日本の女性が21年連続して1位であったが、男性は2位から4位に後退、32年ぶりにベスト3の座を明け渡した。ちなみに今回の1位が香港の79歳、2位がアイスランドの78.9歳、続いてスイスの78.6歳で日本は4位に後退した。では平均寿命の最も短い国としては西アフリカのシエラレオネ共和国(人口532万人)で女性が46.6歳、男性が37.5歳であった。この小国は高温多湿で降雨量が年間5000mlで風土病が多いため平均寿命が下がっているらしい。日本と比べると実に50歳近くもの差がある。

 確かに近代国家になった我が国では平均寿命は上ってきたが、戦前は平均寿命が50歳だった。しかし明治初期の頃の日本人の平均寿命はなんと30歳半ばであったという。よってこの時代の人たちは常に死を意識しながら生き続けたという。その点、現代人は長生きできることに感謝せねばならない。なぜ平均寿命が延びたかの原因は2つあると思う。

1つは栄養状態の改善、つまり栄養不足の時代から免疫力の低下により感染症にかかりやすかったが、食料が豊富になったお陰で健康な体をつくることができた。
そして2つ目が医療面での大きな進歩があげられる。特に医療面では戦後間もない頃ぽっくり病(脳出血)や、けがによる化膿で亡くなる人が後を絶たなかったという。しかし感染症の治療や高血圧に対する治療が進歩したため死亡率が低下した。それと乳児の死亡率が大幅に減少したのも寿命が延びた大きな原因のひとつである。

 もう1つ私が興味を持っているのは、なぜ女性の方が男性より平均寿命が高いのか。それはまずホルモンの作用によるものらしい。女性が閉経を迎えるまでホルモンの作用によって体が守られるためである。もう1つはお産を終えてから子を育てる生命力を必要とするためではないかといわれている。つまり男性よりも女性の方が免疫力が強いことを表している。もう1つが男性の方が働く時間が多いためである。仕事によって社会的ストレスを抱えたりして生活習慣病にかかりやすいため、肥満による肝臓病や糖尿病などの疾患にかかりやすいためだといわれている。
 人間は自然の生き方をすると120歳まで生きられるといわれている。しかし、文明文化の発達、科学の進歩などが逆に人間社会を脅かし、先進国である日本は寿命が延び悩んでいるのである。その中でも世界に比べれば日本人はまだ長生きの方かもしれない。しかし、ただ長生きするだけでなく健康で毎日を過ごしたいものである。

Drの四方山日記(88)

K01.jpg 長時間の空の旅などで発症する『エコノミークラス症候群』(正式名、肺動脈血栓塞栓症)の予防にカボスやスダチ(ミカン科かんきつ属)が大きな効果を発揮すると、大分大の食物栄養学での研究でわかった。2年後の2008年には商品化を目指すといわれている。


 『エコノミークラス症候群』については、既に医学会に関わらず旅行協会を始めマスメディアで大きく取り上げられているので大概の人はご存知だと思うが改めて記述してみる。

 2000年9月ニューヨークから成田空港に到着した53歳の女性が、空港に降り立った直後に体調が悪くなり心肺機能が止まり死亡するということが 起こった。それは飛行機で長時間同じ姿勢でいたため太ももの付け根や膝の裏あたりの静脈の血が流れにくくなり、血の塊(血栓)が生じ、立ち上がって歩き始めた途端に血流に乗って流れ始め、肺が詰まってしまう病気だ。悪くするとこの例のように呼吸困難から死に至ることもある。成田空港だけでも年間150件近く発生しているという。ではなぜこの病気が起こるのか。その原因としては飛行機の中は空気が乾燥し、気が付かないうちに体から1時間に約80ccもの水分が失われるといわれている。例えば12時間のフライトだと、約1?もの水分が失われる計算になる。

長時間のフライトにより沢山の水分が失われ、血液が濃くなって粘り気が増してきて、静脈欠が固まりやすくなります。そして血の塊が血管の中を流れていき、それが肺に詰まって息が苦しくなって生じる病気である。但し、これは十分予防ができる病気でもある。

 『エコノミークラス症候群』である肺塞栓症はなにも乗り物だけで生じるものではなく長期の入院患者や車椅子の難病患者にも発症するという。

 この2つの果実にはクエン酸やビタミンCが多く含まれ胃液の分泌を正常にしてくれるので、胃弱の人や食欲不振などに効果がある。では、なぜスダチやカボスにはエコノミークラス症候群の予防効果があるのか。特にカボスには動脈硬化に有効たされるポリフェノールと似た強い抗酸化作用がある。カボスの搾り汁と生体の血液を混合すると、血小板が凝集する凝固作用を抑える効果があることが研究で分かった。

 私も開業以来、世界各国に出掛けるので、人ごとではない。ただ私の場合は飛行機に搭乗中、2時間おきくらいに席を立ってストレッチ体操や短い歩行をするように心がけ、また1時間から1時間半くらいにミネラルウォーターを補給するよう心がけている。座席でも座ったまま上半身を動かしたり、足もこまめに屈伸運動などをして下肢への血流を促している。それと機内ではきつめの服を避けゆったりした服装でリラックスしたり、枕を腰に入れて背骨に負担をかけないようつとめている。そのせいか幸いなことにエコノミークラス症候群にならないで助かっている。

■関連サイト
エコノミークラス症候群(ロングフライト血中症) -NMNナチュラル・メディスン・ネットワーク
〈参考文献〉
毎日新聞、読売新聞、Healthクリック
健康コラム

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87.jpg この日曜日はゆっくり家でくつろぐことができた。たまにゆっくりテレビでも見ようと思いスイッチを入れたら、民放のチャンネルで素晴らしいドキュメンタリー番組が放映されていた。
 それは『ザ・ノンフィクション』という番組で、この日のタイトルが「泣き虫母娘の韓国留学ため息連続」である。広島市に住む高校2年生の女の子が、母親と2人で語学留学のため韓国の大学に3ヶ月滞在したドキュメンタリーである。

 広島の若い高校生がいろいろな経験を積ませるため韓国の高麗大学に留学した。それも母娘で留学するという大胆なもので、初めは何となくテレビを見ていたが父親がいきなり涙ぐんでいたり、母親が無口になったり、娘の心配顔が画面に出たときは、一体どうなるのかと思って半ば心配した。それは物語が始まって10分位してから見たせいで、あまり内容が把握できなかったせいかもしれない。ともかく母娘が飛行機で韓国ソウルに向け出発し、無事到着してリムジンバスに乗ろうとして運転手さんに行き先を告げるが全然言葉が通じなく情けなく思っていたところ、運転手さんが親切に教えてくれたお陰で無事バスに乗ることができた。大学に到着後パソコンをバスに置き忘れたことに気がつき、あわてて連絡を取ろうとするが、いかんせん語学力のなさでどうすることもできなく困っていたところ、母親が会話の本を取り出しいろいろ組み合わせて何とかバスに忘れたことがわかる文章を作り、大学寮の関係者に渡した。幸いいろいろな人の協力のもと、無事パソコンが戻った。

 次に大学での語学研修や寮およびアパートでの慣れぬ異国の暮らしに2人は涙を流しながら何とか生活をしていった。大学の短期コースを修了する前、ソウルのある家庭に2人がホームステイした。この家庭は3人家族で娘が韓国の東大といわれるソウル大学に通学し、両親は典型的な韓国の上流層の家庭生活を送っている。

 ある日、娘の希望で韓国の独立記念館を訪れることになった。娘2人で見学したが戦前の日本軍の残酷さを展示する様に、日本人である彼女は「あまりの酷さに気持ち悪くなった」とへたりこんだ。そこで帰宅後彼女が韓国の両親と娘に質問した。「日本人に対してどのような気持ちを持っていますか」と17歳の彼女は尋ねた。するとお父さんがしばらく沈黙の後「日本に対して怖いイメージをいまだに持っています」と答え、娘は「高校時代まで日本に対し悪いイメージを持っていたが、大学で学ぶうち、日本の文化に理解ができ少しずつ日本の良さもわかってきた」と笑顔で答えた。

 今回の短期留学は「韓国と日本の架け橋になりたい」という夢を持って母親は看護師を辞めてまで娘と2人大切な思い出にと考えていたが、娘のあまりにもいろんなことの体験、経験があったようだ。大学の卒業では娘に最優秀賞が、母親には皆勤賞が渡された。今回の留学はいろいろな意味でつながりの糸の細さと強さを感じさせるものであったようだ。

 ここ数年、韓流ドラマ人気で日韓の関係はぐっと身近になった。しかし、政府間では靖国や竹島問題などで相変わらずギクシャクしている。そんな時、今回のような教育を通じて日本と韓国の架け橋になるべくこの物語は何か考えさせられるものがあったし、いくらか橋の土台になったのではないだろうか。

Drの四方山日記(87)

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86.jpg この頃、リサイクル(廃棄物などの再生利用)運動が盛んであるが、元々日本では平安時代からリサイクルが行なわれていた。その際たるものが雑木林である。雑木林は人間がつくったもので、その材木で家を建てたりして、木が腐されば薪として燃料にも用いて生活の糧にした。


 時代が進んでくると生活の1つである“屐・げき”という足袋を履くためのげた(板)がつくられこれに3つの穴を開けて紐で固定して歩くための履物として使われた。これが世界に誇れるぞうりやスリッパとして発展していった。これも再利用の1つである。

 江戸時代に入ってくると日本は循環社会になり、各家庭から回収される屑物は、古紙やボロはもとより、髪の毛にいたるまでリサイクルの対象になった。貝殻やボタンにロウソクの燃えくずは再生ロウソクの原料となった。それを買出し人と呼ばれる業者が各家庭を回って回収し、建場や寄屋と呼ばれるところに持ち込まれた。それを各品目別に別け資源の仕分けをし、専門の問屋を経ていろいろな産業の原料として供給された。日本のリサイクルの特徴は集団回収システムにある。最近では資源分別収集として各市町村が行いそれをリサイクルとして取り組んでいる。

 話は余談になるが、リサイクルの一つとして下駄などの履物があげられる。もともと下駄の前は靴がすでにあり、中国の邪馬台国が田下駄という靴、またヨーロッパ北欧の騎馬民族が履いていた「モカシン(甲部にU字型の切り替えがあるかかとのない柔らかい靴)」などがあったといわれる。日本の下駄は最初は女性の履物として利用された。のちに武士が履いて広めていった。下駄にはいろいろな効用があり、足のつぼを絶えず刺激して内臓の機能を活発にしたり、親指と人差し指で鼻緒を挟むことによって、人間の体に素晴らしい効用をもたらすことが医学的にも立証されている。下駄などの履物はいろいろな材料を使ってリサイクルとして重用している。

 ともかく時代が変わっても、リサイクル運動は日本のいたるところで活動し、国民のために役立てている。

■関連サイト
リサイクルホームページ-国土交通省

Drの四方山日記(86)

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 昨日の四方山日記84で「欽ちゃん球団」の解散について述べたが、全国から激励文や署名運動など世論の力で、欽ちゃんを動かしチームの解散宣言を撤回したようだ。確かにこの国には“けじめ”という言葉があるが、どちらかと言うと政治家や会社の不祥事発覚の時に用いるもので、今回のように山本個人が野球ではなく芸人として知名度を上げている場合にはチーム全体で連帯責任を取るのには、何か不合理を感じていたので、チームの存続はファンのみならず我々国民にとっても良い判断だったと思う。

85b.jpg 最近、病院に行くとやたらに薬をたくさん出され、飲むのに苦労している人が多いと思う。服用の仕方や薬の副作用などを書いた説明書が写真や文字ばかりで分かりにくいと誰もが感じていたと思う。そこへ新たに『くすりの適正使用協議会』が書いた絵文字(ピクトグラム)を使った説明書「薬の正しい使い方」がインターネットを通じて全国の薬局に配布したという。今回の絵文字は、薬の種類・形状を示すもの、飲み方・用法を示すもの、警告・禁止・使用上の注意を促すものの3つのタイプに分けられ28種類がつくられた。特に禁止事項は赤、副作用による警告は黄色で表示するという。子供やお年寄りにわかりやすくするため、ナイフやフォーク、カプセルなどの絵で表示されている。今回のこの絵文字による薬の使用法は、薬教育として子供から小・中学生などの授業に取り入れていくという。今まで教育の現場では高校の保健体育の時間に教えていたらしい。

 今回の絵文字は子供から高齢者まで誰もが一目で理解できるよう開発されたという。また患者さん自身の飲み忘れや、誤飲などを防ぐことも狙いらしい。ともかく薬は病気に対して必要最小限に出すのが適正であって、むやみやたらに必要でない薬を出すことは国民にとってもプラスにはならない。ぜひ薬の正しい使い方をしてほしいものである。

絵文字(ピクトグラム)の庫-くすりの適正使用協議会

Drの四方山日記(85)

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84.jpg このところ、いろいろな事件が相次いでいるが、その中でも漫才コンビ「極楽とんぼ」の山本圭壱の事件はファンのみならず社会全体がビックリした。なぜなら彼は社会人野球クラブ「茨城ゴールデンゴールズ」の主力メンバーであったからである。そのため萩本欽一が率いる野球チームは解散に追い込まれた。欽ちゃんは羽田空港で「ゴールデンゴールズ」の解散を涙ながらに宣言した。その理由は、今回の事件現場に山本ほか2人の選手が同席していたことが彼を解散へと焦らせたようだ。このチームは2年前にプロ野球が混乱し、ファン離れした時に“子供たちの夢を奪いたくない”と昨年の1月に社会人野球球団として発足した。その後の活躍は既に皆さんもご存知の通りである。何もそこまでする必要はないのではないかと、地元茨城県だけでなく各方面から存続の声や署名運動が起こっている。

 しかし欽ちゃんの解散決意は固いようだ。選手を家族のように愛した指揮官だけに、「許されない反社会的行為」に対してきちんと“けじめ”をつけたいという心境であろう。野球界活性化に貢献した人気球団だけに惜しい限りである。事件の当事者である山本もこれを機に反省し社会復帰することが、迷惑をかけた欽ちゃんをはじめチームメイトへの償いではないだろうか。
 最近はアマ球界も「欽ちゃん球団」をはじめ、歌手やタレントのオーナーも増え野球人気も復活し始めた矢先の出来事だけに、残念で仕方がない。アマチュアリズムに反することなく襟を正し、野球界に貢献して欲しいものである。

■関連サイト
茨城ゴールデンゴールズ オフィシャルサイト

Drの四方山日記(84)

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83.jpg ここ5日間くらい毎日雨が続き、半ばうんざり気分である。本当だともう関東辺りも梅雨明けする時期であるが、いまだに予測がつかない。西日本の沖縄県や鹿児島県の奄美地方はすでに梅雨明けしている。平年より4日早いと天気予報士は述べている。

これだけ科学が進歩した時代であるにも関わらず、天気だけは自然の現象なので予測がつかないようである。やはり科学の力は自然には勝てないのだろうか。確かに梅雨の末期には集中豪雨が多くなると昔から言われている。それは太平洋高気圧が夏の気配で強まるのと、梅雨前線により多くの水蒸気が供給され南の雨雲が発達して集中豪雨をもたらすからだ。それが各地に大きな被害をもたらすのである。我々関東に住む者は東海地方辺りで集中豪雨があると「もうそろそろこちらにも来るなぁ」と思うものである。またこの間の猛暑は梅雨明けの兆候で、太平洋高気圧が強くなってきた証拠でもある。

最近の天気予報士はいろんなことを言って我々国民を混乱させている。ある予報士は「梅雨明けは早まる」他の予報士は「平年並み」だとか「遅れる」などと平然と公共電波を通じて違った情報を与えるが、我々にとっては出来るだけ正確な情報が欲しいものである。いっそうのこと“気象予報士”ではなく“気象予想士”と名前を変えてみてはいかがだろうか。ちょっときつかったかな?

では、梅雨明けを知ることも大事であるが、我々にとってはこの夏の天気はどうなるのか知りたい。猛暑なのか冷夏なのか、ハッキリして欲しいものである。一人ぐらい勘や経験からでもいいから、確度の高い情報を我々に教えてくれればおおいに助かるのだ。

Drの四方山日記(83)

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82.jpg 16日(日)早朝、羽田空港より私の搭乗した飛行機は北陸・富山に向けて離陸した。今回は田舎のスローライフの集まりと合掌造りの生活調査のため帰郷した。富山空港で関係者3人が出迎えてくれた。車に乗り込んで早速、岐阜県と富山県にまたがる世界遺産に登録されている白川郷と五箇山(菅沼・相倉)を訪れた。日本には現在世界遺産リストに登録されているものが11件あり、自然遺産が2件、文化遺産9件ある。その中でも白川郷と五箇山の集落は文化遺産として1995年に登録リストされた。

 この集落の合掌造り家屋は、日本のどの地方にも見られない極めて特異な形態を呈している。どちらかというと昔の家屋にしては“合理的民家”の一つの形態をしている。19世紀末には合掌造りの家屋は1800棟以上もあったが、20世紀半ば以降は急激に減少して、現在は白川郷に114棟と五箇山にある相倉に20棟と菅沼に20棟で、築100年?200年というのが状況である。私が幼少の頃はかなりの合掌造りの民家が存在していた記憶がある。
私の実家は五箇山の近くの町で菓子製造業を営んでいる。父が経営した頃は数十人の若い衆が働いており、その中の3人くらいは五箇山の平村や利賀村から住み込みで働きに来ていた。昔から白川郷及び五箇山の山岳地帯は日本でも有数の豪雪地帯でかつては冬ともなれば、全く交通手段がなくまさに「陸の孤島」であった。そのため俗世から隔離された。山岳奥地には平家の落人が隠れ住んだという伝説がまことしとやかに語り継がれている。

その後、時代と共にこの集落にも次第に道がつくられ、交通手段が確保されてから以後は訪れる人も増え、まさに市町と農村との交流が進んで共生・対流が実現した。特に世界遺産に登録されてからの観光客の数は150万人の大台を超えて驚異的発展をし、賑わいを見せる集落となった。

合掌造りとは「小屋内を積極的に利用するために、又首構造の切妻造り屋根をした茅葺家屋」である。また合掌造りの屋根裏は2?4層に分け蚕の飼育所や桑の葉の収納所として使われたり、妻に開口を設けて小屋内に風と光を確保できるように活用された。
私が最も興味を持っているのは、ここでの食事である。両集落とも同じ食物を栽培していたようだ。その中でも白川郷は朴葉を使った料理、そば・栃餅で、五箇山はゼンマイ・スス竹・ウドなどの山菜、豆腐、イワナ、ヤマメなどの魚を主食としていたようだ。

この急峻な山々と深い谷が続く山峡の地は、2年前に訪れたやはり文化遺産であるペルーのマチュピチュを思い出させる。この地もインカ帝国がスペイン軍に終われ隠れ住んだ状況とよく似ているものがある。今回この地を訪れて、今まで詳しく知らなかった合掌造りの集落の建物や気候、風土がら生まれる生活は、今回の目的とするスローライフそのものである。また私の生まれた故郷に世界遺産である素晴らしい集落を残してくれたことに感謝している。
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Drの四方山日記(82)

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81.jpg 私たち日本人にとって“お盆”は、何か特別なものがる。ああ?これから猛暑の日が続くんだと思うと、なおいっそう暑い夏が嫌いな私にはこたえる。

 お盆といえば『孟蘭盆会・うらばんえ』をいう。由来はインドのサンスクリット語のウランバーナー(逆さ吊り)で「さかさまに吊り下げられる様な苦しみにあっている人を救う法要」という意味からきている。昔お釈迦さまの弟子の1人、目連尊者(もくれんそんじゃ)が母を救う話が最初の由来である。目連尊者は大変父母思いの人として知られていた。ある時神通力によって亡き母が餓鬼道に落ち逆さ吊りにされて苦しんでいるいるのを見た。そこで、どうしたら母を救えるのかとお釈迦さまに相談したところ、お釈迦さまは「あなたの母はわが子かわいさのあまり、他を損ね餓鬼道に落ちた。あなたの心が如何にあろうとも、あなたの努力だけでは母は救えない。7月15日、夏の修行が終わり懺悔する日に集まる僧侶たちの力を借りて、有縁無縁の御霊に供養しなさい。するとその力によってあなたの母は救われます」と説いた。そこでその通りにしたら、なんと母は逆さ吊りされる苦しみから救われたというもので、これがいきさつとなってお盆がつくられた。
お盆には2つ意味がある。1つは「ご先祖様を尊ぶ」という意味からご先祖様や亡くなった人のために供養すること、つまり祖先の霊を迎えて祭る行事として仏教の慣わしで墓参りをすることだ。もう1つは父や母、家族など生きている人やお世話になった人たちに感謝の気持ちを念じるため供養すること。それが現在のお中元として日頃からお世話になっている人や親類、知人、兄弟などに贈り物をして感謝する習慣として残っている。

 8月のお盆は海外へ行くため、旧盆である7月の16・17日に帰郷し、用事の合間に母の見舞いと父の墓参りに行こうと思う。

Drの四方山日記(81)

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80.jpg 昨日のお昼過ぎ、四谷に出掛けた。私の20年来の友人の事務所で世界的画家であるヒロ・ヤマガタ氏にお会いするためである。以前、親友より彼のことは聞いていたが、なかなかお会いするチャンスがなく十数年が過ぎていた。ヤマガタ氏の名作であるシルクスクリーン画を10点程購入してクリニックに展示し、来訪される患者さんの目を和ませたり、家に飾ったりして家族や仲間を楽しませてもらっている。

 2日前、私の恩師からヒロ・ヤマガタ氏の来日を聞き、1度お会いしていろいろ絵画のことや創作されるときの気持ちなどをお聞きしたいなぁと思い、私の親友に連絡を取ったら是非会ってあげてくださいという返事に快くして、ヤマガタ氏財団設立準備室の事務所に伺った。約束の午後1時30分ジャストに着き、ドアーを開けて入ると円卓の中央に腰掛けてスタッフと仕事の打ち合わせをしていた。軽く会釈をして彼の隣のイスに腰掛けた。仕事の話が20分くらいで済み、彼が私の方を見て笑顔で「ヤマガタです」と声をかけてくれた。何しろ私にとっては素晴らしいアートを楽しませてくれる憧れの人だったので、始めはちょっと緊張していた。しかし、彼の穏やかな顔を見てビックリした。普通芸術家といわれる人は気難しく気性の激しい人が多いが、その雰囲気が少しもないのに驚いた。そして話してみてまたビックリ。

「先生は作品中に人物をたくさん描かれますが、それはなぜですか?」と問いかけたところ「私はあまりこだわりがないんです。描きたいから描いてるんです。もしここに人物をどうしても描かなければならないと思い込んだら、それは本当の自分の描きたい物にはならないし、自分の絵ではなくなってしまう」と答えられた。そこで私は「先生は作品に向かうときは自然体で描かれるのですね」「そうなんです。私は幼少の頃から好きな絵を描きたいと思い続けてきました。米原の高校を卒業し広告会社でポスター描きをしたりして好きな絵を描いていました。24歳の時にフランスへ渡り、パリで6年間絵画を描く生活をしました。そこで得た経験を元に30歳でロサンゼルスに移住しました」その時に版画的技法のシルクスクリーンを用いた絵画が認められるようになったと私に語ってくれた。

私が一番興味があったのがレーガン大統領との親交についてである。なぜならレーガン大統領は私の卒業したパーマー大学と大きな関わりがあるからである。パーマー大学の3代目学長がレーガン大統領を育てカルフォルニアの自分が経営するテレビの放送局のキャスターに抜擢し頭角を表した。その後の経歴は皆さんがご存知の通りである。80b.jpgそれをヤマガタ氏に話したところ「あ、そういうことだったんですか」と驚かれ、彼とのエピソードを私に語ってくれた。いろいろ意気投合していくうちに30分以上過ぎ彼に会うために待っている人たちをヤキモキさせた。彼は昨日までアメリカにおり、来る前の日にアーノルド・シュワルツネッガー氏と行動を一緒にしていたということであった。ともかく不思議に彼と話していると100年の知己のような親しみと共感を感じた。別れ際彼との硬い握手をし、「また是非近いうちにお逢いしましょう。」といってくれ何か熱いものを感じた。人間は人との出会いによって自分の人生が変わるといわれる。まさにヤマガタ氏のお話を伺っているとなにか自分と重なるものを感じた。この日はなにか勇気をもらった感じがして一日充実した日を送ることができた。

・ヒロヤマガタ画伯が手がけるプロジェクト
バーミヤン アフガニスタン レーザープロジェクト

Drの四方山日記(80)

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79.jpg この夏は暑いせいかビールがとても美味しい。特に家族や友人、あるいは職場の仲間たちと語らいながら飲むビールは最高だ。私も仕事を終えてからの家庭での缶ビール(360ml)の一杯は仕事の疲れを忘れさせてくれる。

 古代のエジプトやギリシャでは神にささげる神聖な供え物(飲み物)にビールが用いられた。また流行病の予防や薬としても重宝がられた。特にエジプトでは「液体のパン」といわれ種々の病気に効くとして重宝がられた。ギリシャでは医学の祖ヒポクラテスも発疹症の病人に発芽した大豆の煎汁を飲ませて、排尿量を増加させる治療法の一つとして用いた。また中世時代のドイツではビールをスープにして人々の栄養源とした。それが今日ドイツの家庭料理として生き続けている。日本でも明治初期にはビールは薬屋で売られていた。なぜこうもビールが我々人間になじんだのだろうか。人々はストレスにさらされて緊張した中、ビールは精神の緊張をほぐし心の疲れを取るのに最も優れるといわれている。その他では適量のビールは胃から腸へ流されやすく吸収もされやすいので、胃を刺激して胃酸の分泌を促し胃の働きを活発にさせる作用がある。またビールはミネラルやビタミンも豊富に含まれるため、食品としても理想な飲料として重宝がられている。ただ、限度を超したビールの飲用は肝臓や胃を痛めるので注意が必要だ。

 最近、我が国では従来のビールから発泡酒が出現し、さらに第3のビール(ビール風アルコール飲料)が加わり、選択肢が増えた。これからさらに猛暑に入ってくるこの時期、冷たいお茶やウーロン茶代わりに飲めるので楽しみである。
Drの四方山日記(79)
厳選された、世界のビール

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78.jpg 朝、新聞に目を通していたら素晴らしい記事があった。それは東京のある中学校のバラ花壇に絡む話である。このバラは普通のバラではなく「アンネのバラ」で、ベルギーの園芸家が作った新種のバラ「スべニア・デ・アンネフランク」を、アンネ・フランクの父オットー・フランクに“アンネの思い出・形見”として贈ったものである。

1974年この中学校の国語の教諭が授業で『アンネの日記』を取り上げて生徒たちに感想文を書かせ、それを父であるオットー・フランク氏に送ったところ2年後にバラ3株が贈られてきた。そのバラを丹精込めて育て株を増やし、32年過ぎた現在バラの花壇は大きくなり生徒たちの心の安らぎとして可愛がられている。またPTAをはじめ保護者から「せっかくの貴重なバラだから教育に生かしては」と声が上がり「アンネのバラ委員会」ができ、メンバーも40人を超えた。この「アンネのバラ」を1905年と1906年には広島市の中学校にプレゼントし、昨年8月にはその中学校の生徒が日韓中高生交流会に呼びかけ、平和のシンボルとして世界中に届けたいと生徒は目を輝かせている。

『アンネの日記』の著者アンネ・フランクはドイツのフランクフルト・アム・マインの裕福なユダヤ人一家の末娘として生まれた。1933年ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を恐れオランダ・アムステルダムに家族と共に移住した。しかし、第二次世界大戦勃発後、1940年ドイツ軍に占領されてユダヤ人狩りが始まり、1942年ダーン一家など8人と父の職場である事務所を隠れ家にして潜行生活に入る。2年後の1944年、隠れ家はゲシュタポに見つかり8人は逮捕され、アンネは姉マルゴーと共にベルゲン・ベルゼン強制収容所に入れられる。1945年姉のマルゴーがチフスにかかり、2・3日遅れてアンネもチフスによって息を引き取った。死亡前2年間の隠れ家での生活を日記として綴ったものを、その後父が『アンネの日記』として出版して世界的なベストセラーとなった。なぜいまだにこの『アンネの日記』が世界中の人たちを感動させるのか。日記はアンネが13歳の誕生日である1942年6月からゲシュタポに逮捕される3日前にあたる1944年8月までの2年間綴られている。隠れ家生活の中で8人が狭い、緊張に苛まれた空間で同居する様や、思春期の少女が家族に対して抱く気持ち、性に対する好奇心、迫り来る死への恐怖などの少女の心情が見事に描かれている。

この少女が激しい差別や迫害に屈せず、最後まで希望を失わなかった精神は、時代を超えて今なお我々に“生きる勇気”と“平和な社会実現への希望”として与え続けている。
中学校と「アンネのバラ」がその役割を見事に受け継いでいる。

Drの四方山日記(78)

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77.jpg 9日でサッカーワールドカップ・ドイツ大会が終了した。今までもサッカーの話題が多く、5回に分けてブログを書いてきた。もうそろそろサッカーから離れようと考えていた矢先、劇的な出来事が起こった。それはイタリアとの決勝戦においてフランスの司令塔でキャプテンのジネディーヌ・ジダン選手が退場というハプニングが起こった。そのせいかフランスの2度目の世界一の座は遠のいてしまった。1度は代表を引退したジダンが同じく引退していたチームメイト、ティユーラム・マケレレ選手と共にフランスの世界一のために復帰した。

 さて今回のジダンのイタリア戦での退場劇の真相について考察してみた。ジダン選手はアルジェリアの移民の子としてフランス南部のマルセイユに生まれ、14歳でスカウトの目に止まり、ASカンヌのアカデミーに入団した。17歳でカンヌの一軍に上がり、柔らかなドリブルや正確無比なパスでミッドフィルダーとなった。特に彼の超音速のボレーシュートは素晴らしくフランスのみならず世界に注目された。1994年にフランスの代表となり鮮烈なデビューを果たした。その後フランスの代表としてヨーロッパ選手権などで活躍し、1996年イタリアのユベントスに入団。さらにスペインのレアル・マドリードに招かれた。その時の移籍金はなんと約81億円(世界最高額)といわれた。これまで国際サッカー連盟の年間優秀選手に3度輝き、1998年FIFAワールドカップでは優勝の立役者となった。その彼がなぜ引退試合とされたイタリアとのW杯決勝戦において退場という最悪の事態になったのか。今回の出来事は1対1の同点から延長後半5分過ぎに起こった。イタリアのベテラン・マテラッツィ選手がジダン選手に罵声を浴びせた。しかしジダンが無視し自陣に戻ろうとしたが、再度マテラッツィが強く罵声を言い放ったため、ジダン選手がいたたまれなくなって、相手の胸に頭突きを食らわせた。その結果主審は他の審判団と協議の末、レッドカードを示し退場となった。その内容をブラジルのテレビ局が読唇術で分析した結果、「お前の姉は売春婦だ」と2回繰り返し、さらに彼を激怒させた内容は、イスラム教国アルジェリアにいる「お前のいとこはテロリストだ!!」と屈辱的暴言を吐いた。その結果冷静なジダンは激高して上記のような退場劇となった。しかしジダンはそれについての理由は一切コメントしなかった。確かにスポーツ競技において野次はつき物であるが、相手選手を中傷するような暴言はスポーツ精神に反する行為でありあってはならないものと私は思う。ましてや自分の生い立ちや自分の家族について言われることは誰しも嫌がることである。確かに暴力行為は批判されても仕方がないことではあるが、それを起こさせた人物にも問題があるのではないだろうか。勝つことは勝負においては最も最優先されることであるが、あくまでもスポーツである限りフェアに戦って欲しいものである。それが見る人に感動や勇気を与えてくれる。ともかくジダンの蛮行については世界各国で論じられているが、ジダン選手本人の気持ちは一体どういう心境なのだろうか。

Drの四方山日記(77)

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76.jpg 日曜日、家族の誕生日を祝って私の家族と仲間2人を連れて、東京の郊外にある八王子の高尾山に行った。高尾山といっても登山するのではなく、20年来の友人である井上淑博さんの経営する“いろりの里”高尾山名主「ごん助」を訪れた。この「ごん助」は奥高尾の山麓にあり、甲州街道を高尾山口から相模湖方面へ向かって車で10分程走ると、大垂水峠の入り口の手前両側に小さな村を思わせる一角がある。これが『ごん助村』である。

井上さんは以前、この「ごん助村」をつくるにあたってのエピソードを私に話してくれたことがある。それによると、彼の家は農家で貧しく家庭を助けながらいろいろと苦労し大学までいった。その大学時代に、都会に生活し田舎に帰られない人や田舎を思い出させてくれる場所に、昔懐かしい暖炉を囲んで田舎気分を味わえるような店をつくりたいという希望を持った。そこで地元の農家から昔の生活用品や農具を譲り受けた。建物も雪国の古い民家(富山県・五箇山)から家ごと買い復元して田舎の雰囲気を作り、なおかつお店から見えるところに庭や池、離れの個室まで両親と共に4年かけてつくり上げた。訪れたお客さんが建物に足を踏み入れた瞬間タイムスリップした雰囲気を味わってもらおうとしたり、暖炉を囲んで炭火焼料理を頂く情景は、まるで童話に出てくる村を思わせる。また「ごん助村」には『ごん助ののみ口』という物語があるという。まさに高尾山の名主である。しかし彼もすべて順風満帆とは行かず、6年前大火があり母屋が全焼し大打撃を受けた。しばらく憔悴していたが、自分を見つめ直すために、彼は海外へ出掛けた。その時趣味のカメラを片手にいろいろな国に行き、田舎町を周り、農家の生活や子供たちの姿を撮りまくった。そこで見た親子関係や子供たちの姿を見て、再度自分も頑張らなきゃという気持ちになり、大火後の復興に努め現在の素晴らしい「ごん助村」が出来上がった。私も時々家族や友人、経営者仲間たちと、この「ごん助村」を訪れて田舎の雰囲気を味わせてもらっている。ここの料理は炭火焼の暖炉でひな鳥、海老、鮎の塩焼き、うずらの卵、野菜などを焼き、また名主さんの家で作る田楽、小鉢、ごま豆腐、麦とろご飯やおそばを客に振舞っている。値段も安いので誰でも気軽に利用できるところが素晴らしい。最近は自然の中で風情ある雰囲気を楽しめる店が少なくなっている中で、「ごん助」のようなお店が存在しているのはありがたい限りである。

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Drの四方山日記(76)

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75.jpg 7日の七夕の夜、診療を終えてからテレビ出演のための取材と撮影があった。韓国の民放で一番大きいソウル放送(SBS)の『SBSスペシャル“血液型の真実”』に出演のために撮影班がわざわざ訪日したのである。午後8時過ぎ3人(チーフディレクター、カメラマン、通訳)が到着、早速簡単な打ち合わせに入って、クリニックの全体の撮影を行なってからいよいよ本番に突入した。最初は私の患者さんの1人でもある女性の方をモデルに実際の治療している状況を20分程度音声を入れて撮影が行なわれた。次にその患者さんから“血液型健康法”と“血液型ダイエット”のインタビューを15分程行なわれたようである。私は次の準備のため院長室で軽く関係書類に目を通していたため待合室でのインタビューの状況が分からない。10分程のテレビカメラのセッテングの後、患者さんとの治療後の説明や食事指導、特に血液型別健康食生活について患者さんにアドバイスしている様子を撮影された。この場面は20分で終了して、5分の休憩の後、私の単独インタビューに入った。

私の場面はもっぱら「血液型健康法」や「ダイエット法」に入るまでの動機や「血液型と運動能力」、「血液型と知能」に対する考え方や根拠についてインタビューが行われた。韓国内で今、血液型が注目を浴びており76%もの人が血液型が気質や性格と関係していると答えている。単なる興味本位のみでなく健康や性格に血液型がいかに関連しているかなど、非常に関心度が強いという。

今回の出演の経緯は1997年1月訪韓して、韓国SBS放送の特番『情報特急金曜ベスト10』に2週にわたって出演(1時間生放送と録画)し大好評であった。その時のディレクターが私のことを覚えていたようで、前回のダイエットではなく今回は血液型健康法で登場して欲しいということで今回の出演になった。

75b.jpg 過去に日本のテレビには数十回出演しているが、韓国のテレビとの違いはいろいろな面で見られる。日本の場合は台本というものがあり、それにしたがって進行していくが、韓国は簡単なレジュメがあるのみで、その都度ディレクターと出演者とで相談しながら進行する場合が多い。よってリハーサルより本番を重要視する。その他ではスタートの合図がなくいつ始まったのか分からなくてビックリするが、彼らの考え方はあくまでも自然体で映像を撮りたいようである。日本の場合は合図があるのでスタートするとかえって緊張してやり直しが多い。どちらがいいかはそれぞれの国によって違うので何ともいえないが、韓国のテレビ出演は私にとっていい経験になったようだ。

Drの四方山日記(75) 

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74.jpg  今日7月7日は五節句の一つである七夕である。私が小さい時は本物の竹に思い思いの願いを短冊に書いて飾り付けた。私の町は人口1万人くらいであったが、七夕になるとそれぞれの家々が大きな飾りをつけて競ったものである。そして町外れの川に行灯片手に行列をなして川に流しに行った。


 七夕(しちせき/たなばた)の始まりは中国で、後漢の頃(1?3世紀)に作られたといわれ、古くは棚機(たなばた)と表記されその名残が“たなばた”という発音になった。その中国の節句が日本の奈良時代に伝わり、『古事記』にあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって今日の七夕が生まれたという。棚機津女の伝説は村の災厄を除いてもらうため水辺で神の衣を折り、神の一夜妻となるため織屋で神の降臨を待つ巫女(棚機津女)の伝説で「たなばた」という語源が生まれた。それが695年、持統天皇に宮廷で宴を催されたのが七夕祭りの始まりである。発祥である中国の伝説によると、夜空に輝く天の川のほとりに天帝の娘で織女と呼ばれる天女が住んでいた。織女は天を統治する父天帝の言いつけを守り、毎日機織に精を出していた。彼女の織る布は5色に輝き季節の移り変わりと共に色取りを放つ不思議な織物であった。父は娘の働きぶりに感心して、天の川の西に住む働き者の牽牛という牛飼いの青年と結ばせることにした。こうして2人は新しい生活を始めた。しかし、結婚後の2人は暮らしに夢中で毎日遊び呆けて織女は機を織らなくなり、牽牛は牛を追わなくなった。そのため天帝は怒り、反省させるために天の川を隔てて2人を引き離した。そして天帝は織女に「心を入れ替えて一生懸命仕事に精進するならば年に一度7月7日の夜に牽牛と会うことを許してやろう」と申し渡した。織女は牽牛と離れて暮らすのが辛くて涙にくれていたが、天帝に背くことができず天の川の東に帰っていった。それ以来自分の行いを反省し牽牛に会いたいばかりに機織に専念した。牽牛も同じ思いであった。指折り数えて7月7日の夜、2人が待ち焦がれた日であったが雨が降ると天の川の水かさが増し、織女は向こう岸に渡ることができず、船人に渡してくれるように頼むが断られ途方にくれた。その時どこからか無数のカササギ(鵲・カラスより小さい肩の羽と腹面が白色で、あとは黒色の鳥)がやってきて天の川に自分の体で橋を掛けてくれた、という七夕伝説である。ベトナムではカササギの変わりにカラスがその役目をなすと言われている。またヨーロッパの伝説はアザラシが皮を脱いで美女になり、漁師がアザラシの皮を隠してしまい美女は海の中の国に帰れずしかたなく漁師の妻となる。その後、皮が見つかり美女はアザラシとなって海に帰ってしまう。

74b.jpg その七夕伝説を現代では仙台、平塚などで盛大に行なわれている。特に仙台の七夕祭りは7つの道具(紙衣・千羽鶴・投網・巾着・吹き流し・屑篭・短冊)を飾り商売繁盛、無病息災などの祈願をするという。
 北朝鮮でも「チルソク」という七夕伝説がある。しかし横田めぐみさんと日本にいる両親が長く引き離されてきた。七夕の伝説のごとく、この親子を是非カササギの橋を造って逢わせたいものである。

Drの四方山日記(74)

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73c.jpg 5日未明から朝にかけて6発のテポドン2号を含めた弾道ミサイルが日本に向けて発射された。落下したのはロシア沿岸南方の日本海である。幸いなことにわが国領土内に落とされなかったことに日本国民は安堵した。北朝鮮の今回の行為は「米国の関心を引くこと」、「アメリカを含むアジア同盟国への警告」ではないかと専門家は論じている。

もし、「ためし行動」や「テスティング」のつもりで弾道ミサイルを発射する国家行動をしたのだとすれば、わが国だけでなく世界の安全保障と国際社会の平和と安定を脅かすものとして由々しき問題である。日本の首相やブッシュ大統領がいう“遺憾の意”だけで片付けられない問題である。もちろん厳しい経済制裁処置や国連安全保障理事会に北朝鮮の行動に対する決議案を出しているが、それだけの問題にしないで、もっとアメリカの同盟国を中心に世界各国に呼びかけ確固たる制裁を取らなければ、この常識が通じない国にはこたえないのではないか。戦前の日本だったら、まさに戦争が勃発している状況に値する行為である。ミサイルと核はお互いの国民を人質に取り合うようなものであり、平和を願う国々にとっても決してプラスにならない行動である。

 今回発射された中の1つテポドン2号は、8年前の1998年に日本列島を飛び越えて三陸沖に落下したテポドン1号(27m・21.7t・射程1500km以上)に比べて規模や性能においては格段優れ、長さは35m、64t、射程距離は6000kmを有し、なんとアメリカ本土のアラスカまで届くというから近隣国である日本にとってはひと溜まりもない。テポドンという名前はアメリカが北朝鮮で初めて見つけたミサイルの場所の地名からつけられた。

73b.jpg どうも現在の北朝鮮の金日成、金正日一族と江戸時代の徳川家による幕府の統治には類似点があるように思う。一族が国家を支配しそれに反するものは徹底的に排除するその方法は、まさに相通ずるものがあるように思えてならない。日本の場合は徳川一族が「自家優先主義」を保持し260年以上にわたり長期安定政権を築いてきた。しかし、1858年にアメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船や他の西欧諸国が来航し開国を迫り、その結果1868年に徳川幕府が崩壊し明治新政府が成立した。いわゆる明治維新の状況とここ近年の北朝鮮の金正日一族の動向が類似し、まさに北朝鮮の崩壊を思わせる状況から今日の弾道ミサイルの発射されたように思うのは私だけだろうか。ともあれ時代は民主主義主体の世の中に進んでいる状況である中、平和と安定を求めることが最優先されている。早く安心して暮らせる世の中になって欲しいものだ。

Drの四方山日記(73)

W3.jpg ある雑誌に驚くことが書いてあった。それは未来の農業が太陽の光や土も農家もいらない時代に入るという。それは工場を建ててその中で野菜や植物を栽培するというものである。そのときは何気なく目を通しただけで終わったが、今朝のラジオ番組で「野菜工場」について論じていた。それによると、これからの野菜など植物は太陽光と自然環境に依存した農業やビニールハウスで栽培する方法ではなく、ハイテクの工場を造って生産するという。情報によると室内で光量や温度などをコンピューター管理して農作物を育てる「野菜工場」が広がっているという。天候に影響されず農薬も使わず土もなく洗わず食べられ安全性も保障されるという生産に、今大手の企業が相次いで参入している。

W3b.jpg 今までの気候、土壌、農薬、環境などに影響を受ける農業は維持できなくなり、ほとんど外国の輸入に頼りつつあった。しかし今回の「野菜工場」は農地や人件費及び石油から作った肥料なども必要とせず、ハイテク野菜生産システム(野菜自動工場)によって季節や天候に左右されず無農薬野菜を一年中生産できる。まさに消費者にとっては夢のような話である。ただ「野菜工場」の大きな課題はコスト面において、露地物の数割から倍近く高いという。その最大の原因は太陽光と電灯などの電気代が生産原価の3割近くかかり、現状では成功しても大して儲からない、つまりうまみの少ない事業といわれている。そのため日本の大手の企業が大型の工場を設け、大量に生産してその問題をクリアしようとしている。特に各社ともスーパー、居酒屋、ハンバーガーチェーンなどの外食産業へ販路を拡大し利益を増やそうとしている。

確かに「野菜工場」は一般農業と違い、畑作に比べ雑菌が格段に少なく無農薬で栽培でき、一般消費者が言う安心・安全にも効果があり、また天候に左右されず生産量を安定して供給できる強みがある。その他に後継者難、低い食料自給率など日本の農業が抱える問題の解決策にもなる。では栄養価はどうなのか。

W3c.jpg例えばサラダ菜100グラムあたりカルシウムが工場産だと33ミリグラム、露地物だと50ミリグラム、ビタミンCでは工場産で16ミリグラム、露地物で13ミリグラムだという。ほとんど栄養価は露地物とそう変わりない水準が得られるというので驚きである。野菜に関わらず他の植物でも同じことが言えるようだ。

 確かに「野菜工場」や「植物工場」は狭い日本においては有効だし、都会でも生産でき我々の食卓に容易に入ってくるので助かるが、ただ露地物に比べて味はいまいちであるようだ。
近年日本の人口が減り農業人口が減っても、十分我々の食を満たしてくれることはありがたいことだ。

話題シリーズ(3)

72.jpg サッカーの中田英寿選手が突如現役引退声明を発表した。Jリーグに始まってイタリア、イングランドで8季6クラブを含めて10年間にわたりプレーした。日本代表には20歳で選ばれ、数々の国際Aマッチで活躍し、日本サッカーのけん引役となった。彼の引退声明も自身のホームページ上で行なうというまさに現代流の考え方である。その理由も体力の限界を感じ思うようにプレーができない、というありきたりの理由ではなく「日本代表として責任を負って戦うことが困難になり応援してくれる人たちに感動を与えることができない。そして子供の頃から持っていたサッカーボールに対する“瑞々しい感情”が失われたから。」というまさに男の美学からである。そして最後に“人生とは旅であり、旅とは人生である”と締めくくっている。

 中田英寿選手といえば必ず競技は違えど比較されるのが野球のイチローである。この2人の共通点は独自のスタイルを持ちメディアと距離を置き、いつもクールでありながら責任感が強く全力でプレーをするところである。イチローはWBCという国際舞台で最高の活躍をし、大リーグのア・リーグの顔としてなお活躍をし続けている。それに対し中田選手は自分の描いたW杯の決勝リーグに進出し、なおかつ超一流サッカープレイヤーとして活躍をし続けるものだと信じ込んでいたが、いかにせん思い込んでいたことと逆の結果が出てきたのは運命のいたずらだろうか。しかし2人のスポーツプレーヤーは日本が誇れる最高のプレイヤーであることに間違いない。イチローはWBCで見せた本当の感情が日本人に理解された。ヒデは引退によって彼の人間性を日本人に少なからず受け入れられたのではないだろうか。これをとっても超一流人としての共通点を見たような気がする。

 では中田英寿選手は今後どのような道を歩んでいくのだろうか。彼はすでにイタリア語や英語をマスターしている。その他にも会計士の勉強に意欲を燃やしていたり、某菓子メーカーの執行役員を勤めるほか、ニューヨークでビルを所有するなどビジネス面においても名をはせている。また現在5社とCM契約を結んだり、映画にも出演するなど広範囲にわたって活躍している。この一流選手がこれから社会においてどう一流の人間として活躍していくか非常に楽しみである。

Drの四方山日記(72)

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71.jpg 日曜日の夕方、妻と私の誕生日を祝うために、東京・恵比寿にある恵比寿ガーデンプレイスに行った。恵比寿ガーデンプレイスは2002年11月にサッポロビール恵比寿工場の跡地に複合型開発都市として、明治時代に建設されたドイツ風の煉瓦建てのビルをモチーフにして建設された。この一角には映画館・美術館・アトレ・デパート・レストランなどが立ち並び、中心には噴水やさまざまなアートワークなどがレイアウトされ、カルチャー・文化を生み出す街として親しまれている。その一角である三越の中にある“Olive Bar”で食事を楽しみながらのボサノヴァのライブを満喫した。

 ボサノバはポルトガル語でBossa Nova(ボサノヴァ)といい“ボサ”は感覚“ノヴァ”は新しいという意味で、1950年代の終わりにブラジルのリオ・デ・ジャネイロのイパネマなどの海岸地区に住む中産階級のミュージシャンや学生によって生み出されたサンバ調の音楽である。ボサノヴァの誕生は1950年の終わりにリオ・デ・ジャネイロに滞在していた若手ミュージシャン、ジョアン・ジルベルトという一青年がギターを片手に弾き語りをやり、当時ブラジルには若者が聞きたいと思う自国の音楽がなく、アメリカから入ってくるジャズやフランクシナトラの歌がもてはやされ、そのシナトラのファンクラブから意気盛んな自分たちで演奏できるオリジナル音楽を作るべく模索をしていた。その後1958年アントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)やモライスによって作られた「Chega de Saudade(想いあふれて)」がジョアン・ジルベルトの歌で初のボサノヴァレコードとして発表された。つぶやくように歌われるこの曲は、当初ブラジル人には違和感をもって迎えられたが、抑制されたメロディーと洗練された歌唱は、昔からのブラジル音楽に飽きた若者たちの心を捉え広く大衆に受け入れられていった。特にボサノヴァのナイロン弦のアコースティックギターをバチーダと呼ばれる独特の引き語りで歌う曲はクールで新しい若者たちに多いにうけた。

 この夜はボサノヴァの代表曲である「イパネマの娘」「デザフィナード」などが、フルートとギターをバックに透明感のある美しい声で私たちお客を魅了した。特にアメリカ人でボサノヴァの第一人者であるCapitalが飛び入り出演した時は皆拍手喝采だった。今回のライブは今までにない素晴らしいもので、私にとって忘れられない誕生日の1ページとなった。

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Drの四方山日記(71) 

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70.jpg このところほとんどの若者が携帯電話を持っている。ある企業の調査によると小学生の携帯電話の利用は4人に1人、中学生で2人に1人、高校生で90%であり、高校生の30%が1日2時間以上利用するという結果が出ている。今や若者にはなくてはならない必需品であるようだ。今から10年前までは携帯電話は価格が高く、お金持ちか特定の中高年の男性に限られ一般庶民には高嶺の花であった。当時のマスメデアもこぞって「携帯電話は社会の迷惑だ」、「携帯電話野郎は恥ずかしい」、「ポケベル親父が進化して」などと非難したものだ。当時は何故一般庶民は携帯電話をもてなかったか?その理由は加入料金や回線使用料および端末機器の価格が非常に高くてなかなか購入できず、日本では普及しなかった。

 では携帯電話の歴史だが、わが国の携帯電話(移動電話)のルーツは船舶用の港湾電話に始まる。1953年日本電信電話公社が商用サービスを開始したのを皮切りに、1979年に地上で使える自動車電話が登場し、1991年に小型軽量ムーバ(220グラム)が発売され、1992年よりNTTから移動通信部門が独立してNTTドコモが誕生した。以後小型携帯電話が一般庶民にも低価格で購入できるようになった。その後の携帯電話の発展は皆さんがご存知の通りである。

 携帯電話の発展は必ずしも全ていい方向に進んでいると私は思えない。それは携帯電話の活用が人間関係の希薄化、デートクラブ(売春)や青少年の非行や逸脱行為などにも影響していることを忘れてはならない。科学の発達は必ずしもいい方向にいくとは限らない。時として負の現象も起こりうるのである。それを肝に銘じて携帯電話を活用して欲しい。

Drの四方山日記(70)

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