![]()
淀川長治さんといえば「日曜洋画劇場」の名解説で名を上げた映画評論家である。映画解説の後、名調子で「さよなら、さよなら、さよなら」と言って名残惜しそうにテレビ画面から消えていく。彼は一生独身を貫き通し、自分の好きな映画をこよなく愛し、映画人とも親交が深くまさに今で言う“映画オタク”であった。
淀川さんは芸者の置屋で生まれ、親が映画会社の株主だった影響で映画界に興味を持ち、成長してから『映画世界』の編集者として活躍。その後アメリカの映画社の社員から東宝映画の宣伝部に勤務し、雑誌『映画の友』の編集長を経て映画評論家となる。
彼を有名にしたのは1936年、当時世界の喜劇王チャップリンが来日した時、日本の映画人の代表として彼と対談したことだ。それが後のチャップリン評論家の第一人者となったことにつながる。1960年半ばに外国映画『ララミー牧場』の解説で脚光を浴び、『日曜洋画劇場』の解説者に抜擢された。死ぬ前日までの32年間、独特の語り口と名調子でファンを魅了し続けた。それが“映画の伝道師”淀川長治である。
私の恩師が淀川長治さんのエピソードを話してくれたことがある。
それは、ある日都内の映画館で行われた試写会で上映の後、サイン会が行われた。長蛇の列の中に一人の小学生がいた。淀川さんは一人ひとりサインと握手をし続けた。その小学生の順番になったときにサインの後握手をしようとするとその男の子は左手を出した。すると淀川さんは優しくその子にさとすように「僕、左手では握手はできないよ。右腕を出してごらん」と言ったがその子は最後まで右腕を出さなかった。そのため、淀川さんはその子の手を振り払って迎えの車に乗った。外国生活の長い淀川さんにとっては闘いを象徴する左手での握手は欧米では嫌われていたからだ。
その時、気になって車の後部座席から後ろを振り返ったらその子が立っていた。驚いたことにポケットから出した右腕がなかった。それを見た淀川さんは車を降りて駆け寄り、涙をいっぱい浮かべてその子を抱きしめ「坊や、ごめんよ、ごめんよ」と言い続けた。このエピソードを聞くと淀川長治さんの人柄が偲ばれる。その淀川さんの名調子が8年ぶりに一夜限りであるが“淀川ワールド”として戻ってくることは映画ファンにとっては何よりも喜ばしい限りである。
参考資料:フリー百科事典 デイリースポーツ
Drの四方山日記(287)
コメントする